No.53

由美グルメリン No.1‥-あけましておめでとうございます♪ 由美&美伽 in マウイの旅〜「カワナパリGC」&「ワイレアGC “Gold”」&「カパルア“Bey"」at「カワナパリ」♪ 「ハレアカラ火山」“ハイキング”♪ “ザトウクジラ”クルーズ♪ 会津の銘酒『末廣酒造』の“樽酒”
 
せりなづな 御形はこべら 仏の座 すずなすずしろ これぞ七草 ―四辻善成
 
新年あけましておめでとうございます。

今年の正月休みはいつもになく長く休ませていただき、昨日1月9日(火)より、ようやく“仕事始め”となった『由美』ですが、このお正月休みはいかがお過ごしでしたか?
今日10日は既に“正月事納め”の“松の内”も過ぎてしまい、今年は日本古来の風習の“七草粥”を食する機会すらありませんでしたが、あなた様はもう、無病息災を願い“七草粥”を食されましたか?
さて、この“七草粥”には、災いを除け、長寿富貴を得られる願い懸けの他にも、正月疲れの胃腸を休める薬膳効果もあり、これからも家族の健康のため、末永く伝えていきたい習慣のひとつかと思いますが、元は、平安時代よりの風習とか、また中国からの伝来で、本来は“七草”ではなくて“七穀”だったとか様々な謂れがあり、古くは清少納言の「枕草子」(二段)に・・・
「正月一日は、まいて、空の景色うらうらと珍しく、かすみこめたるに、世にありとある人は、姿容心ことにつくろひ、君をもわが身をも祝ひなどしたるさま、殊(こと)にをかし。七日は、雪間の若菜青やかに摘み出でつつ・・・」と言う一文にもあるように、当時の日本の正月行事は、6日の夜から7日にかけて、柊などの刺のある木の枝や、蟹の鋏のようなとがったものを戸口に鋏んで邪霊を払い、唱えごとをしながら七草を包丁で叩く“七草叩き”の後、粥を炊き込み7日の朝、歳神に供えてから家族で食べるのが慣わしだったようで、その後「四辻の左大臣」と呼ばれた南北朝時代の公卿・四辻善成が、「・・・これぞ七草」と詠んでから、「春の七草」として定着したと云われています。
http://kiransou.hp.infoseek.co.jp/harunonanakusa.htm
ところで、この四辻善成が残した最大の業績は、政治的なことではなく、30歳代後半の1362年頃に「源氏物語」の注釈書『河海抄(かかいしょう)』20巻を著したことで、この第十三巻の「若菜」の注釈の中で善成は、平安時代の「若菜まいる」の行事は、次の12種の植物を合わせて羹(あつもの)にしたと書いており、それは若菜 薊(あざみ) 苣(ちしゃ) 芹(せり) 蕨(わらび) 薺(なずな) 葵 蓬(よもぎ) 水蓼(みずたで) 水雲(すいうん) 芝(し) 菘(すう)の12種ですが、これに続いて冒頭の7種の野菜・野草を挙げ、これが現在まで伝わる“春の七草”の原典になっていますが、この7種とは、善成が生きた南北朝時代の“春の七草”の種類を示したものと思われ、ただ五・七・五・七・七の短歌の形ではなく、この記述を元に、種類の順序を入れ替え「これぞ七草」というフレーズを付けて短歌にしたのは、善成自身でしょうか・・・それとも他の誰かでしょうか・・・ 未だに謎に包まれています。http://www.h6.dion.ne.jp/~chusan55/kobore3/46nanakusa.htm
 
君がため 春の野に出でて 若菜つむ 我が衣手に 雪は降りつつ ―仁和帝
 
それでは今週“正月明け”の『由美』では、皆、絹の“衣”にて、「百人一首」にも採られたこの有名な歌の如く想いで、あなた様のために春の野に出て若菜を摘み、そしてその“衣”の袖にそっと雪が降りかかるような、そんな優雅な風情で、きっと新年早々にお目にかかれますこととご来店を心よりをお待ち申し上げております。
そして今年は、“年女”亥年八人衆の『由美』ですが、どうか昨年同様に、ご贔屓にしていただけますこととよろしくお願い致します。
 
 
♪会津の銘酒 『末廣酒造』の“樽酒”  http://www.sake-suehiro.jp/
♪2007年“年賀状”
 
♪マウイ島への旅 夕暮れのラハイナ http://www.jp.visitmaui.com/
♪『Kaanapali Tournament North Course』
♪“ザトウクジラ”クルーズ
♪『Wailea Gold Course』
♪「ハレアカラ火山」“ハイキング”
♪『カパルア』 Bay Course The <http://visitmaui.com/tracking/trackurl.php?lid=308>
 
 
 
 




















 
由美グルメリンNo.2‥新年は皆艶やかな“和服”にてお待ち申し上げております♪ 大使が書いた『日本人とユダヤ人』byエリ・コーエン著♪ 銀座ステーキ『塩澤』♪ 九段下『寿司政』銀座店♪
 
           空近く   あまりまばゆき   初日哉  ―正岡子規
 
暦では“泉水温をふくむ”「小寒」次候となりましたが、年明け間もない今週はいかがお過ごしですか?

キリンズの今週は皆、お正月らしく艶やかな“和服”にて、皆様をお迎え致しておりますが、ただ最近の新成人の“着物ブーム”とは裏腹に、銀座では、年々“日本髪姿”も減りつつあり、今年の年明けは“黒留姿”さえも少なかったように思います。
さて、“和服”を装うということは日本女性の心の表れで、“和装”は日本民族の魂ですが、私たちは普段、新しい門出や喜びに対しては艶やかな色彩に胸を昂ぶらせ、その反面、近しい人の人生の終焉には、暗い色をもって哀しみを表し、礼装をもって追悼の意を籠めてきました。
そんな“和服”が千年の永きに渡り、培い続けて来た歴史を思い起こせば、現在の“和服”の原型ができたのは平安時代の頃からと言われていますが、元は、中国春秋戦国時代の“呉”の“服”から、“呉服”と云われ、日本に於いての“衣服”歴史は、弥生時代頃までは埴輪などからしか想像できないのですが、古代より“貫頭衣”のようなものや、筒袖の“上衣”に、ズボン型の“袴”を履いた服装などがあったようです。
それが5〜6世紀頃になると、中国文化の渡来で、上流階級には唐風の衣装が普及し、しかし平安時代中期になると、菅原道真が遣唐使を廃し、それによって中国式とは異なった日本独自の“衣服”が発達し始めました。

ちなみに、この当時の男性貴族の第一礼服は束帯姿で、頭には冠、上は袍(ほう)を着て、下は袴。足は足袋に靴、腰には太刀を下げ手に笏(しゃく)を持ち、この時下着として付けていたのが、“帷子”や“小袖”で、実は、これが現在の着物の表着である“長着”のルーツで、つまり平安時代の人から見たら、現代の“和服”は、まるで下着だけで出歩いているように見えて、とんでもないことでしょうが(笑)、その一方で、女性貴族の場合はいわゆる“十二単”を着て、“単”という下着の上に“袿(うちき)”を3〜25枚ほど付けて、その上に打衣・表衣・唐衣を着て、下は“裳(も)”(スカート)を穿き、だいたい平均で12枚くらいの重ね着をすることから“十二単”ですが、仮に“袿”を25枚も重ねたら、この装束の総重量は恐らく30kgくらいになり、当時の貴族は、到底体力がなければ務まらず、その苦労が伺えるようですが、後に、この“単”の下には“小袖”を着るようになりました。

その後、平安時代の下級貴族の服装であった狩衣(かりぎぬ)が、鎌倉時代には武家の第一礼装となり、その簡略化されたものとして“水干(すいかん)”“直垂(ひたたれ)”などが派生しますが、室町時代
には、この“直垂”が第一礼装の座を獲得し、同様に女性の服装もどんどん簡易化され、まず“裳”の代わりに“袴”を着用するようになり、やがてその“袴”も省略され、ついには“小袖”が主役に躍り出て“小袖”を数枚着重ねる“打掛け姿”が登場しました。

江戸時代に入り、この“小袖”は全盛時代を迎えますが、この頃から男女とも“小袖”を、普段着から礼装にまで応用して、武士の正装は、これに“裃(かみしも)”を付け、女性は“振袖”“留袖”といった形式が成立します。
http://www.ffortune.net/life/fashion/waso/kiso/kiso09.htm
http://www.kitsuke.jp/cgi-bin/kitsuke/sitemaker.cgi?mode=page&page=page1&category=0
 
風流や   うらに絵をかく   衣更   ―杉田久女
 
それでは、今宵は、今後も多くの日本女性が“和服”を着こなす事を願いつつ、久女のごとく“風流”な“いでたち”にてお迎え致しますので、平安貴族には程遠い“装い”ですが、どうかこの素晴らしい民族衣装の“雅”を見にいらしていただけませんでしょうか?そして日本女性に生まれた最大の喜びであり、誇りでもある“和装”の色合いと図柄に、四季の移ろいと、奥深い美意識を、感じていただきたく思います。
 
 
 

♪ 大使が書いた『日本人とユダヤ人』byエリ・コーエン著(中経出版)
♪“まばゆき”西宮浜の初日の出  Photo by 大澤壽文
 
 
♪銀座ステーキ『塩澤』
♪中央区銀座8-3-10 トミタビルB2F tel 3572-7613
 
♪九段下『寿司政』銀座店 
 中央区銀座8-5-22
tel 3574-6622
http://juhaku.jp/
 
 
 




















 

由美グルメリンNo.3‥1月12日“財界賞” at 東京會舘♪ “イノシシ神社”『護王神社』♪ “都七福神まいり”『黄檗山万福寺』の“布袋尊”&『松ヶ崎大黒天』♪ 宇治の『平等院』&『源氏物語ミュージアム』♪ 銀座『久兵衛』本店“新春の魚彩”♪

 
薮入りや   二人落ちあふ   渡しかな  ―正岡子規
 
「小正月」“薮入り”も過ぎ、まもなく“寒土用”入りとなりますが、この暖かな“寒中”の週始めは、いかがお過ごしですか?
「土用」とは土旺用事の略で、この日から「立春」前日までの約18日間を指しますが、「土用」の間は“土”の気が盛んになるため、“土”を動かすことや殺生が忌まれ、五行説による季節の割り振りでの「土用」は、四季に配当(冬:水、春:木、夏:火、秋:金)されなかった“土”の支配する時期として、各季節の前に設けられていますが、今では「土用」と云えば、「立秋」前の“夏土用”のみを言うことが多いようです。

さて、キリンズの先週末は、この“寒”の最中に“亥年”に因んで、京都御苑の西側に位置する「和気清麻呂」を御祭神とする“イノシシ神社”『護王神社』にて、“狛犬”ならぬ“狛イノシシ”の雄姿を拝み、『由美』には8人も在籍する“イノシシシスターズ”の今年一年の健康を祈って参りました。

この「和気清麻呂」とは、「日本後記」の“イノシシ”伝説で有名ですが、そもそも「清麻呂」と“イノシシ”との関わりは、奈良朝末期の「道鏡事件」(769年)に遡り、「清麻呂」は、時の称徳天皇に取り入って皇位を窺ったとされる僧・弓削道鏡の野望を、「宇佐八幡」(大分県)の神託を以て阻み陰謀を挫いたことにはじまり、その後、野望を阻まれた「道鏡」は「清麻呂」を大隈(鹿児島県)に流して、途中殺めようと計りますが、その道中で「宇佐八幡宮」に詣でる「清麻呂」の廻りに300頭もの“イノシシ”が現れて守護したと伝えられていて、これが“狛犬”ならぬ“狛イノシシ”の由来です。
また、この伝説には、“猪の頭”の被り物を付け祭礼を営む習慣のある秦氏などが、配流途中に「清麻呂」を助けたことから生まれたとする解釈もありますが、「宇佐八幡宮」に到着する頃に は「清麻呂」の“足”もすっかり治り、『護王神社』には、この説話から“イノシシ”との言い伝えにかけて、“足萎え回復”のご利益も謳っています、(京都新聞 広域ニュース「ふるさとの昔語り25」)
そんな『護王神社』の歴史は、元は和気氏の創建により、洛西の高雄山神護寺境内に作られた「和気清麻呂」を祀った廟(護王善神堂)に始まり、古くから「護法善神」と称されていましたが、嘉永4年(1851)、孝明天皇は、「和気清麻呂」と姉・「広虫」の「道鏡事件」の際に流刑に処せられながらも皇統を守り抜いた功績を讃え、正一位「護王大明神」の神階神号を授けられ、そののち、明治7年(1874)に『護王神社』と改称して別格官幣社に列せられました。
現在では、明治19年(1886)に明治天皇の勅命により、神護寺境内から華族中院家邸宅跡地であった京都御所蛤御門前に社殿を造営し、姉・「和気広虫姫」を合わせ祀り、御遷座されていますが、この「広虫」が孤児救済事業で知られることから、当社は“子育明神”と呼ばれるようになり、その後、崇敬者により境内に霊猪像“狛いのしし”が奉納され、“イノシシ神社”とも呼ばれ親しまれています。

 

薮入りと   いふ日の古き   雨を聴く  ―永井東門居
 
それでは、今週は、遥か古えの“日本神話”「和気清麻呂」に想いを馳せ、『護王神社』詣で、“都七福神まいり”にてリフレッシュして参りました“イノシシズ”をよろしくお願い致します。そして今宵も、きっと『由美』の“七福神”ならぬ“8イノシシ”に会いにいらしていただけますこととあなた様のご来店を心よりお待ち申し上げております。
 

   
 

♪1月12日“財界賞”
http://www.zaikai.jp/
 

♪“イノシシ神社”『護王神社』の“イノシシ” http://www.gooujinja.or.jp/

♪“都七福神まいり”『黄檗山万福寺』の“布袋尊” http://www.obakusan.or.jp/

♪『松ヶ崎大黒天』& 『東寺』の“毘沙門天”& 宇治の『平等院』
http://www.rokuhara.or.jp/miyako/p_daikokuten/ http://www.byodoin.or.jp/
♪『源氏物語ミュージアム』
http://210.167.236.66/data/H8i682kazUC6EX1/
 
 
♪銀座『久兵衛』本店 *中央区銀座8-7-6 tel 3571-6523
http://www.kyubey.jp/
 




















 
由美グルメリンNo.4‥大相撲初場所観戦”♪ “寒の旬魚”すし処『きたむら』♪ 創業120年の老舗の“江戸前寿司”銀座『寿司幸本店』“鮪づくし”♪
 
眞個(まつたく)の事を申しませう。 ‥‥其の時分は最う火は消えたんです。
火事は濟みました。 ‥‥‥    紀伊國屋の支配人長五郎が腕を見せて、
大金を一時に儲ける働きも忘れました。が、唯殘つて居るのは、こがれ死をした
娘の一念、燃えながら天に昇つた紫の振袖です。
虹は勿論、徂徠ふ雲の白いのを見ても、飛ぶ鳥の翼を見ても、皆それが宙を
通る振袖に見えて忘れられない、幾年も/\。小兒は何時までも恍惚と空を
見るやうに成りました。
夜は、星のなかにも、其の振袖がちらついて。さうした時は、明星が、其の白菊
の模樣でした。 ―泉鏡花『卯辰新地』より
 
1月18日は、江戸三大大火のひとつ“明暦の大火”が起きた「振袖火事の日」でしたが、お蔭で何事もなく過ぎ、ただ“寒”の冷たい風に晒された一日でしたが如何お過ごしでしたか?
関東地方では、今日からは冬型が緩み、この週末は暖かい“寒中”のようですが、こんな日の心配事は、やはり一番は“火事”で、今号ではそんな“防火”の心配から、1657(明暦3)年1月18日の「振り袖火事」について調べてみることにしました。
さて、昔から「喧嘩と火事は江戸の華」と云いますが、この1657(明暦3)に起きた「振袖火事」は、“華”どころか、地獄絵そのもので、この猛火は、江戸城天守閣と市街の殆どを焼失し、死者が10万人にも及んだ大火で、当時の江戸の人口は35万余であったことからも、その被害の惨さが伺えますが、そもそもこの「振袖火事」とは、次の話に由来します。 http://www.k5.dion.ne.jp/~schutz/uta2sinc/uta2sinc_r_01.html
―或る花見の日、上野の神商大増屋十右衛門の娘おきくは、美しい寺小姓を見初め、以来、小姓が着ていた着物の色模様に似せた“振袖”を作ってもらい、毎日、寺小姓を想い続けましたが、やがて、恋の病に臥せったまま明暦元年1月16日、17歳で儚くも亡くなってしまいました。
その後、両親は憐れんで娘の棺にその“振袖”を被せましたが、寺では法事が済むと、当時のしきたりから、この“振袖”を売ってしまい、別の娘(これも17歳)の物になりましたが、この娘も、しばらくの後に亡くなり、“振袖”は再び棺にかけられ寺に持ち込まれました。寺の小姓たちは、同じ“振袖”に驚きましたが、またもや、しきたりから古着屋へ売り払い、今度は本郷元町の麹屋吉兵衛の娘お花の手に渡りましたが、その日以降、お花は病気になり、 明暦2年の同じ日に死亡しました。
“振袖”はまたまた古着屋の手を経て、麻布の質屋伊勢屋五兵衛の娘おたつの元に渡りましたが、おたつも同じように明暦3年の1月16日に亡くなり、このおたつの葬儀の際に、三家は相談して、因縁の“振袖”を「本妙寺」で供養してもらうことにしましたが、しかし、和尚が読経しながら“振袖”を火の中に投げ込んだ瞬間に、突如つむじ風が吹いて、この“振袖”を空に舞い上げ本堂に投げ込み、火は屋根に燃え移り、消し止める間もなく次々と延焼し続けて、翌日には、江戸城本丸天守閣まで類焼し、何と江戸市街の55%が焼失してしまいました。―以上が、真相は老中陰謀説と囁かれる中、火元は「本妙寺」とされる“振袖火事”の通説です。
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/episode14.html  http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/
 
其の中に、私は美しい袖を見ました。其の袖に、緋の襲衣(かさねぎ)が重つても、
島田の手絡が紅鹿子でも、決して其が、燃えるのではありません。が、此の故郷に
唯一人、其の袖ばかり見えるのが、まるで、江戸の空に燃えながら靡いた、と云ふ、
振袖を見ると同一やうに思はれたんです。
其の袖は、私の目に炎よりは輝いたのです。けれども、月の光でした。
片袖は峰の三日月、まむきの姿は明月でした。光は、こんな、一葉の草にも浸透る、
けれども手に取られず、近づけないのは、空の影と同一でした。

―泉鏡花『卯辰新地』第6章
 
それでは、この週末は、泉鏡花が『卯辰新地』にて、“月”が“炎より輝く”美しい“袖”の中に、江戸への想いを馳せたそんな“振袖”を偲び、「振袖火事」の三人の娘“おとき”“お花”“おたつ”の供養に、巣鴨「本妙寺」へと、参りたく思っておりますので、あなた様もどうかよき“寒”の週末をお迎え下さいませ。
そして今宵は“振袖”ならぬ艶やかな“袖”のいでたちにて、あなた様のご来店を心よりお待ち申し上げております
 
♪『大相撲初場所観戦』 at 両国国技館 http://www.sumo.or.jp/
 ♪銀座 すし処『きたむら』*中央区銀座4-3-2 槁ビルB1  tel 3564-3640
http://gourmet.yahoo.co.jp/0000606195/U0002109180/
♪銀座 すし処『きたむら』北村賢一ご主人と“生ヤリイカ”
 
♪創業120年の老舗の“江戸前寿司” 銀座『寿司幸本店』
*中央区銀座6-3-8 tel 3571-1968
http://gourmet.yahoo.co.jp/0000609029/M0013000995/
♪『寿司幸本店』杉山 衛ご主人と“鮪”
 
 




















 
由美グルメリンNo.5‥神野美伽“座長公演” 『女将さん奮闘記』3月4日〜25日 at 大阪「新歌舞伎座』♪  “鮨我独創”『赤坂鮨兆』冬の彩り“活ヤリイカ”♪ “松阪チャンピオン牛ステーキ”築地『さとう』のヒレの“旨味”♪
 

大寒の   大々とした   月よかな  (一茶「七番日記」より)

 

暦の上では、寒さが最も厳しいとされる「大寒」を迎えましたが、東京ではこの週末は雪予報だったものの、お蔭で日曜日は穏やかな暖かい日差しに恵まれて、「大寒」という雰囲気には程遠い“冬あたたかな”休日でしたが、いかがお過ごしでしたか?
さて、この「大寒」の“寒”は、“寒中”“寒の内”また“寒がはり”とも云いますが、「大寒」は“寒”のほぼ中間にあたり、「小寒」の日を“寒の入り”、「立春」の日を“寒明け”と云い、毎年この時期には「寒中見舞い」が出され、「大寒」の日以降には「寒稽古」が行われます。
「寒中見舞い」とは、寒さのために相手の健康を気遣う便りのことですが、“寒の入り”頃から「立春」の前日(2月4日)頃までに出す葉書で、最近ではお正月を海外で過ごす家庭も多く、お正月に届けられた年賀状の返礼に困る方も多いようですが、もし、返礼が松の内に間に合わなかったのなら、この時期の「寒中見舞い」を利用して、欠礼を書き添えるのがよいかと思われますが、また喪中を知らずに年賀状を出してしまった方にも、「御喪中をわきまえず年始状を差し上げてしまい深くお詫び申し上げます」と、この「寒中見舞い」によって非礼を伝えられます。
ところで、この最も寒さが厳しい「大寒」の句でよく知られているのは、冒頭の一茶の句以外にも、虚子の「大寒の埃の如く人死ぬる」や三鬼の「大寒や転びて諸手つく悲しさ」などが有名ですが、いずれも“厳しい寒さ”を、“心の寒さ”に転化して詠まれている句で、一方、この一茶の句には、情景としての寒さが感じられる反面、“大々(だいだい)とした月”に、“心の暖かさ”が現れているかのように思われますね。
また、一部の歳時記には「大寒」の異称に、上記の「寒がはり」があげられていますが、これは寒さの状態が変化するということで、すなわち暖かい春へ向けて季節が動きはじめる頃という意味に近く、実際に、この頃から、梅や椿、沈丁花など、寒さに強い花から咲き始め、春が少しずつ近づいてくる感じがします。
このようなことから考えると、「大寒」の季語に託して“心の寒さ”が多く詠みこまれるようになったのは、やはり近代以降からと思われ、昔の人は、この「大寒」には、待ち遠しい思いからも、先ず「春遠からじ」を感じたのではないでしょうか・・・。「新歳時記・冬」(1989・河出文庫所載 清水哲男)
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20030120&tit=%8F%BC%88%E4%8F%BC%89%D4&tit2=%8F%BC%88%E4%8F%BC%89%D4%82%CC
 
日ねもすの   風花淋し   からざるや  ― 虚子
 
それでは、晴天に“風花”が一瞬ちらついた週末でしたが、この“風花”のごとく「大寒」の“寒さ”さも、冬の思い出もどこかへ消えつつ、まもなく暦上では“春”を迎えますが、どうか睦月終わらぬ内に、また『由美』&『けんたうろす』へのご来店を心よりお待ち申し上げております。
そしてこの“暖冬”により、冬の凍てつくような季節感を味わうことが少ない今年の「寒中」ですが、今宵は銀座にて“大々とした月”をご一緒に眺められますことと楽しみにお待ち致しております。
 
 
♪神野美伽“座長公演”『女将さん奮闘記』
3月4日〜25日 at 大阪「新歌舞伎座』
& 新曲『番屋』1月24日発売 by キングレコード
http://www.kingrecords.co.jp/shinnomika/
http://www.geiei.co.jp/profile/sinnnomika/sinnnomik.html
♪“由美&美伽” atマウイ島
 
 
♪“鮨我独創”『赤坂鮨兆』がくりだす新しい鮨の世界
*港区赤坂3-6-10 第三セイコービル3F tel 3585-7917
http://www.akasaka-sushicho.com/goannai.htm
 
♪“松阪チャンピオン牛ステーキ”築地『さとう』のヒレの“旨味”♪

 *築地『さとう』 中央区築地4-2-9 tel 3541-2929 http://r.gnavi.co.jp/g014000/
 




















 

由美グルメリンNo.6‥“新発売”Liqueur『X RATED』♪ 銀座『天あさ』冬の旬彩♪ “フレンチ&イタリアン”レストラン『ボンサルーテ』 at銀座ワシントンホテル3F♪

 
緑蟻新バイ酒(緑蟻(りょくぎ)新バイ(しんばい)の酒)
紅泥小火爐      (こうでい 小火の炉)
晩来天欲雪      (ばんらい 天 雪ふらんと欲し)
能飲一杯無      (よく一杯を飲むやいなや)― 白居易
 
暦では“水沢あつく”「大寒」次候を迎え、ようやく“寒”らしい寒さとなりましたが、睦月最後の週末はいかがお過ごしのご予定ですか?

先週末の東京では、チラホラと「六花」が風に舞い、今にも雪が降りそうな“雪催い”の週末でしたが、お蔭で今週は、緩やかな日差しに恵まれ、“雪”の気配すらなく、残念ながらこの“寒中”に、「六花」=“雪”の句を紹介するような天気ではありませんが、このまま、冬が終わってしまうとも思えないので、今号では降らないで欲しいけど、少しはチラついて欲しい・・・そんな“雪”について調べてみました。

さて、“雪”は古来より信仰の対象とされており、“雪”の正確な語源は分かっておりませんが、神の“御幸(みゆき)”から“雪”とする説や、「潔斎」を意味する“斎(ゆ)”に“潔白(きよき)”の“き”から出たとされる説、或いは“緩水(ゆるやかひ)”や“冷気(ひゆけ)”が転じての説などさまざまですが、そんな中、この“雪”の異称は実に多く、代表的なものだけでも、先ず「風花」(かざはな)は、初冬の晴れた日にわずかに舞う小雪で、 次に「六花」(りっか)は、その六角形の形から「六出」(りくしゅつ)
・「六辺香」(ろくへんこう)とも呼ばれ、またその様子から、「鵝毛」(がもう)・「玉の屑」・「玉塵」(ぎょくじん) や、“香りのない花”の意味で「不香(ふきょう)の花」。豊年の印としての「瑞花(ずいか)」もあり、さらに、 面白いところでは「犬の伯母」というのもあり、この異称は、雪が降ると犬が喜ぶことから、犬を擬人化して優しい“伯母さん”に譬えてのものです。
ところで、上記「六花」という異称は、元は中国から渡った知識として、日本では平安期には既に、“雪の結晶”が六角形であることが知られて用いられておりましたが、実際にその形を観察し、“雪”を日本で初めて学問的に研究したのは、江戸時代の後期に老中までに上り詰め、「雪の殿様」と呼ばれた下総国古河八万石の藩主・土井大炊頭利位で、この利位は藩主として、また幕府の要職者として、多忙な公務の中で“雪”の研究を始めますが、これには優れた蘭学者であり古河藩の家老であった鷹見泉石(たかみせんせき)の指導と協力があったものと思われます。
この利位が「雪の殿様」と呼ばれた謂れは、これまで“雪”の形は知られているものの、実際に観察した者は誰もなく、それを利位は、“雪”が降る度に外へ出て、黒い漆器で受け、オランダ渡りの顕微鏡で“雪の結晶”を検視してはスケッチに残してゆき、こうして古河で31種、大坂で24種の“雪の結晶”を描き、「雪華図説」という書物に纏め出版しました。それが、私家版の出版にもかかわらず、その図柄のあまりの美しさから評判となり、やがて江戸庶民の間でも六角形の“雪の結晶”がデザインとして持て囃されるようになりました。http://blog.mag2.com/m/log/0000126034/
その後、利位はさらに研究を重ね、天保11年(1840)に「続雪華図説」を刊行し、利位の描いた結晶図は、総計183種にも上り、この“雪華図”は、ふたつとして同じ形のない、繊細な“雪の結晶”をよくとらえたもので、後世の評価も高く、現在の“雪華模様”に多く使われておりますが、ちなみに「雪華」という言葉は、この利位の命名によるもので、江戸時代の後期、この「雪華」の模様は、庶民の間に一層広まり、“雪華模様”の衣装が流行し、また服飾小物、果ては茶碗の模様にまで使われました。
http://members.jcom.home.ne.jp/ohta.kahori/kr/kr0002.htm
それでは、今宵は、冒頭の唐の詩人・白居易の如く想いで、“紅の火が灯る”『由美』にて、“緑の蟻と見える酒滓が浮ぶ醸したての酒”を酌み、“雪催いの空”の下、“酒”も“炉”もあなた様をお待ち申し上げておりますので、どうか『由美』へと一杯飲みにいらしていただけませか?
http://abc.shigaku.or.jp/hanapoem/00.1.20.htm
 
 
 
 
♪天ぷら 銀座『天あさ』
*中央区銀座8-7-19 すずりゅうビル1F tel 5568-6200
 
 
♪『ボンサルーテ』 *銀座ワシントンホテル3F *中央区銀座7-10-1 tel 6686-1000
http://www.wh-rsv.com/ginza/index.html
 




















 
 

由美グルメリンNo.7‥“神野美伽”新曲『番屋』1月24日発売 by キングレコード♪ 『Straight,3月号』 by扶桑社♪ 早春の暖かさ『成田ゴルフ倶楽部』♪ “寒”の魚彩 銀座『原だ』♪ “新潟直送”の“旬彩”『越後 叶家』銀座店♪

 
其の匂ひ   桃より白し   水仙花 ―芭蕉
 
暦ではまもなく“鶏とやにつく”「大寒」末候を迎えますが、暖かな“寒中”の週末はいかがお過ごしでしたか?
キリンズ睦月最後の週末は、風邪と戦いながらも、そっと「水仙」が道端に咲く「成田ゴルフ倶楽部」へと出かけましたが、お蔭で無理した甲斐もあり、ひと足早い“冬あたたかな”春を満喫できた休日でした。

さて、“冬の花”「水仙」は、俳句では「水仙花」または「雪中花」で詠まれ、冬に“気品をもって咲く花”として親しまれていますが、古くは、室町中期の百科辞書『下学集』に「漢名水仙華」「和名雪中華」の記載があり、漢名「水仙」は、「仙人は、天にあるを天仙、地にあるを地仙、水にあるを水仙」という中国の古典からの由来で、“仙人”のように咲く美しい花容と、芳香からこう命名されました。

また、古い辞典には、漢名は「水仙華」、和名は「雪中花」と書かれていましたが、日本では「水仙」が定着し、“すいせん”は、この漢字を音読みしたもので、日本へは平安時代後期に、中国より渡来したとされ、その中国へは、シルクロードを経て唐の時代に伝わり、元はギリシャ神話に基づくとされています。
http://www.promochiba.jp/detail.php?pn=detail&num=4048
http://www.doblog.com/weblog/myblog/4950/947134
そんな「水仙」の日本に於ける歴史は、室町時代に書物に登場して以来、その後、華道に於いては、特に安土桃山時代に「まつ」「はす」「かきつばた」「きく」とともに、格調高い花として珍重され、その純白の五弁花の中の、鮮やかな黄色の花冠は、今も清楚な気品と野生の凛洌を感じさせてくれますが、この別称の「雪中花」という愛称は、きっと雪の下で密かに春の装いを始める様子から、こう呼ばれるようになったのでしょうね。
 
水仙や   白き障子の   とも映り ―芭蕉
 
それでは、今週は、真っ白な“障子”を通して映る“水仙”の、浮き立つような清々しさに想いを馳せ、春を待ち続けながら健気に咲くこの花を、道端や公園、そして『由美』に生けて、そっと愛でたく思っておりますので、どうか迎えます如月も『由美』&『けんたうろす』をよろしくお願い致します。
 
 
 
♪“神野美伽”新曲『番屋』1月24日発売 by キングレコードhttp://www.kingrecords.co.jp/shinnomika/
http://www.geiei.co.jp/profile/sinnnomika/sinnnomik.html
 
♪『Straight,3月号』by 扶桑社刊 
“もう銀座から帰らない” 銀座ワシントンホテル *中央区銀座7-10-1 tel 6686-1000
http://www.wh-rsv.com/ginza/index.html
 
♪“早春の暖かさ”『成田ゴルフ倶楽部』三橋里衣プロ
http://www.lpga.or.jp/profile/profile.asp?cd=343&yyyy=2005
http://www.narita-gc.jp/
 
♪“寒”の魚彩 銀座『原だ』 原田泰明ご主人
♪寿し処『原だ』
*中央区銀座6-9-13 第一ポールスター2F
tel 3575-4007
 
♪“新潟直送”の“旬彩”『越後 叶家』銀座店
*中央区銀座7-15-5 共同ビル(銀座7丁目)B1
tel 3542−8607
http://www.kanou-ya.com/
http://r.gnavi.co.jp/g781106/